
Artist's commentary
抱き着きゼファー
涼風は一人でなければ感じられない。
けれどそれは、先触の風を瓢風だと勘違いしているのだと肌身を以って気付く。
この3年間、『あなた』という凱風を間近で浴びたことにより、私の周りに吹いていた風が変わっていくのを感じていた。
初めは「最近は和風が良く吹いているな」と思っていた程度だった。
けれどそれは、あなたがまだ私のトレーナーさんでなかった頃から吹いていたのだと、今なら分かる。
暖かくて、優しくて、時には厳しく、でも私の背中を押してくれる追い風として。
例えば、そう。
あなたが嬉しそうに見せてくれた私のインタビュー記事が載った雑誌。
『そよ風、というには強烈すぎた』
私は考え方は人それぞれだと思い、そのままインタビューを続けようとした時、トレーナーは勝負服で走ろうと提案してくれた。
コースを駆け抜け戻ってきた時、真夏に凩でも吹いたかのような驚きを隠せていない記者の顔は今でも覚えている。
あなたが言わなければ記事を飾るこのフレーズも生まれなかったのだろう。
私より私を知っているかのようなあなた。
恵風であるあなたに育てられた私は心のどこかで諦めかけていた天風に届きつつある。
一つひとつ、山を越えていく度に私の中に新たなる風が吹きすさぶ。
心に乾風が吹いている訳ではない。
『凪ではいられなくなる。』
そんな些細な変化が私の中で起こっていた。
尻尾ハグの件もそうなのだろう。
大切な人とおこなう行為。
尻尾があるウマ娘同士がする特別な行為。
私はそれをトレーナーさんにおこなった。
今もう一度『人前』でおこなえるかと言われると躊躇してしまうかもしれない。
ただ、トレーナーさんと二人きりの時なら出来てしまう。
「どうしたの?」
あなたはいつも通り優しい声色で聞いてくる。
「凱風を、もっと近くで感じたいと思いまして」
そういうとあなたは困ったように笑いながら受け入れてくれる。
こんなこと、あなたと出会った時には思い付きもしなかった。
ただ、これを知ってからは心が饗の風で満たされていくことに気付いてしまった。
至軽風のような心の揺らぎは日々の生活を重ねるごとに増していく。
本当はいけないこと。
私自身、気ままに生きてきたという自覚はある。
それにも関わらずあなたには『傍にいてほしい』と願っている。
私の近くだけで吹いていてほしいと、あなたという自由な風を縛り付けようとしている。
考えたこともなかった。
自由な風でいたいと思う自分が、他人に干渉しようとするなど。
一筋の黒風。
心の奥底から湧く地下水の冷たさから、かすかに生じる空気の流れ。
いつしかそれは獣のように、大きく膨れ上がる雲を押し流す強風へと変わっていった。
私はただその風に流されようとしている。
いや、むしろ――。
――風は自由だろう?
その強風の正体こそ今の私なのだから。
天皇賞(秋)
「――ゴールインッ!!1着はヤマニンゼファー、ヤマニンゼファーです!」
『風』を讃える音が聴こえる。
ざらついた電子の音と、地ならしのような揺さぶられる音。
嵐が吹き荒れているはずなのに『風』の周りは静穏に包まれている。
しかしそれは凪ではない。
「ゼファー!おめで……!」
静穏に入り込んでくる一陣の風。
『風』はその声に惹かれ駆け出す。
今、この瞬間。
誰よりもいち早く『風』を届けたい。
風待ちをしてくれていた凱風に。
力強く『風』を受け止めてくれる。
互いの風を全身で浴びるように。
嵐は更に強くなる。
それなのに、あなたに触れてからは静穏が広がっていくようだ。
「トレーナーさん、今日の私はいかがでしたか?」
『風』は間近に存在するあなたの顔を見上げる。
優しく微笑みながら背中に回された腕に力が込められる。
「風そのものだったよ」
その言葉を受け『風』はあなたの胸に顔をうずめる。
優しくて、暖かくて、豊かな凱風をもっともっと、肌で感じていたかった。
台風の目。
時間にすれば一瞬の出来事かもしれない。
嵐はすぐそこに来ている。
それでも構わない。
周りにどう思われようとも。
嫌われようとも。
今はただ――。
『凱風』を独り占めしていたかった。
「トレーナーさん」
「なに?」
『風』は『凱風』を見つめる。
「私、満足はしておりませんよ」
吹き荒れる嵐という名の歓声の中、駆け寄ってくるインタビュアーを尻目に『凱風』にささやく。
『凱風』は『風』を撫でる。
「もちろん。これからも――」
「『風だけ』を全身で感じたいと思っているよ」
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トレーナー視点を含めた全文(3511字)は小説で
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